昭和40年12月5日 朝の御理解



今日は、ここで、十一時から、麻生さんの結婚式が、秋永先生たち夫妻の、仲人であるようになっております。そのために、昨日、昨夜、あの、御祈念前に、私は、お届けに言ってまいりました。その時に、頂いたことですけれども、ある事ですけれども、そのことの、力素と、感じで頂いた。力の素、素というのは味の素の素ですね。力の素と、お互いが、力を頂かなければならん。「ね」。心に光を頂かなければならん。いわゆる、御徳を受けなければならんと。神様を信ずる力、心の光を、それを、ひっくるめて御徳というならば、その御徳を受けると、神様のご信用を頂くような、私共にならなければならないと。もう、なんと言うても、力の素というのは、どこにあるかというとですね。私共の、正常な心の常態です。どっかに、素晴らしい信心ができておるとです、「ね」。どんな修行させていただいても、その素というのが、狂うておったら、もう、それは、その人の信心の、生涯を駄目にしてしまいます。もし、これは、俗説でございましょうけれども、「ね」。日本一の大泥棒といわれていた石川五右衛門です。「ね」。非常に、親孝行な人だったらしいですね。けども、世の難儀を見かねて、親に喜んでもらう、親に孝行したいというので、一番初めの、盗み始めがそうだったらしいです。如何にその、おー、親に孝行、親に喜んでもらうという、そのことはもう、最高の立派なことなんだけれども、「ね」。曲がったことをして、親に喜んでもらうと、そこから、あの人の出発点がですね、一分が二分、二分が四分、四分が八分というふうに変わってきた。長ずれば長ずるほど、そう変わってきた。そして、いわゆる、大泥棒の張本人のように言われる、いわゆる石川五右衛門というような大泥棒になったという。なら、それが、義賊とか、世の中のためになったとかというけれども、やっぱり泥棒は、泥棒なんです。一週間ぐらい前でしたか、久富繁雄さんが、あと、ここの部屋の調度品やら、あの、床の間に置いております、えー、調度品やら、それから軸やらの取替えが全部あった。「先生、親先生のお部屋には、こういうような軸を、今度掛けさせて頂いております」ちいうもん。掛け替えさせて頂きましたち。「ほう、それは良かった」休ませて貰うときに、私は、必ず、床の間へ向かって、一遍、御祈念をさせて頂いてから休むのです。拍手打ってから、むかって、なるほど、軸が変わっているけれども、その軸が、ちょっとゆがんどるのです。もう、私は、大体人間が、神経質なんですから、それが、気になって、気になってたまらん。「ね」。気になってたまらんけれども、私は、自分でそれを直そうとは思わん。それを、繁雄さんの一つの、責任。まあ、繁雄さんの御用として、えー、自分もそう思う取られるし、私も、そう思うておりますから。いま、なかなか毎日取り上げやら何やらで忙しい、いわば、疲れきって、毎日、その、いろんな確認に参っては見えるけれどもです。毎日私は、気になるんだけれども、繁雄さん、二階の部屋のあれが、ゆがんどるじゃないの、掛け直しときなさいと、ま、たったそれだけなんだけれども、こうして、言いかねておる。「ね」。けれども、やっぱりそれは、直してもらうのは、繁雄さんでなからなきゃならんと私は思うておる。一時が万事、こげなことは癖になる。「ね」。そげなろくそなことしてから。私は、ここの修行生の方達に申します。本当に、おかげ頂きたいと思うならね、上のものが、几帳面にならなければ駄目と。もう、こん位でよかよかというような事じゃ、絶対お徳は受けられんぞと。「ね」。そのためにはね、特に神様の前のことは、清潔、清らかさということは、なんだけれども、例えば、お三宝が、一分一厘こう、ゆがんどってもいかんと。今日、皆さんもお気づきでしょうけれども、ここで、こうやってお取次ぎを皆さんがなさるでしょう、このとき、おひいの、この杉の目が、こっち向いてたこともありますよ、中のこの、木の目が。ここになにか、飾ろうごつあるが、飾れんです。勿論、これが、ゆがんどったら、次から次とこれで、間違いなくこう、置かなきゃ、お取次ぎがよう出来んのです、私は。これがこう、横たくりになっとるまんま、お取次ぎが出けん。いうて、わたくし、あの、厳しく申します。まあ、いわば、そういうところから、おかげを頂かなければならん。力素と、力の素というのをね、もう、いちっばん、そこんところが大事なんだと。それが、素になるのだと。そういうような事が、段々、立派に建てあげられてもです。いわゆる、その人間としての、一番大事なところが、ゆがんでおりましたり、「ね」。これくらいのこと、もう、ろくそなことが当たり前のような事ではです、本当の信心は、身に付けていくことは出来ん、力を受けていくことは出けん。そういうところが、私共の、生活の中にはです、「ね」。先日、(きょろの、くがんちょうの?)関さんが、月次祭にお参りしてきよって、自動車で参って見える、そこに、何か白いものが落ちとる。ちょうど、去年の今のごろ、お米を三俵拾われた。「ね」。それは、自動車に載せていきゃ、丁度、幸い、その時は、兄さんが連れて参って来よったけん、力の強かつが多から、「ね」。一俵は、ま、その、自動車のタンクの中に入れとく、二俵は、ま、(いわえんから、よかどん、やねのなかにこうして、ころがしこんで、?)そして、こうやって、参って見えとる。落とした人は、あるじゃろうから、帰りがけ早速その、自動車を、あの、警察に届けておきなさいて、届けさせていただいて、それが、あの、落とし主も分かってから、ま、あのう、お礼に見えられたんですが、今度も、この月次祭に、拾われたところが、何か、お鏡さんが一重ね。まあ、それだけではしようがないから、そら、まあ、家に頂こうじゃこてと、まあ、それを届ける訳にもいかんから、かえって警察の迷惑になる。ところが、その上に、熨斗袋が付いておった。どうも、棟上かなんかで、大工さんか何かが、貰われて、帰りよって落とされたらしいんです。「ね」。こら、あんた、名前が書いてあるじゃないの。だから、この人から、だから、貰わっしゃったっじゃけん、ここを、調べらっしゃら、誰やったち言うことが分かるから、これは、帰りがけ早速、警察に届けときなさい。勿論それは、開けてもないですから、ま、やっぱり、四、五千円は、入っとったでしょう。だあれも、知らんことですから、「ね」。いわば、ねこばばしとっても良いんですけれども、「ね」。それでは、信心の、いわば、これから信心を身に付けていかなければならない、力を受けていかなければならない、その素が狂う。そういう馬鹿らしい話。そして、警察に届けて、誰か、見えたらしいですから、まあ、ほんとに、本当に、僅かばかりの、御礼を持って、貰いに見えたということですけれども、そんなこっじゃなか。もう、絶対受けんといわれたけれども、ま、置いていかれたということでございましたけれど。
昨夜も、もう、休むと、今あの、修行生の方達があちらの、二階に休んでおる。二番目の息子も、やっぱし、あそこへ一緒に休んでおる。あちらへ行きよったら、あそこん道で、こんどはこら、財布を拾っておる。なかへ、二千円、一円入っておる。二千円入っておる。それはもう、高校生ですから、「ね」。やっぱり、自分達が使おうと思えや、二千円がた、使いこなせれるのですから、黙って拾うときゃ問題ない。それを、お父さん、ここで、家の信者さんかも知れん。と言うて持ってきた。「よかったね、あんたが拾うてよかったね」というて、私が申しました。もし、誰かが拾ったら、わずか、二千円ぐらいのことじゃから、もう、そのまま、もって行かれるなら、もう、あーたが拾うとって良かった。そこに、悪を一つ、作らんで済んだ。おかげ頂いたねというて、ま、私が、褒めたことでございますけれども、「ね」。「そら、儲かったね」「そら、あんたが、小遣いにしとくとよかばい」ち、言うたらどうだろう。そこから、間違うてくる。「そら、神様が、あんたに下さったつばい」ち。力の、力を受ける素になる。どういう信心。素晴らしい信心。どういう素晴らしい掛け軸を掛けておりましても、その、掛け軸が、ちょっとこう、斜めにゆがんどったら、もう、その軸に値打ちは無いと。「ね」。どんなに金光様の信心が素晴らしいと言うても、「ね」。あれどんがと言われるような、もし、事であったら、もう、金光様の素晴らしい信心すらも値打ちが無い。
昨日、ある婦人の方が、お参りをしてきてから、「先生、こんなお届けしてよいかどうか分かりませんけども、あんまりの事でございますから、どうぞ先生、その方の為にも祈ってください」というて、西鉄のバスで、バスに乗ろうと思うて、来たところが、横に、二人の人が、もう、一生懸命、途中で出て来るのが、椛目の金光様というのが出てくる。お話の中に。それで、この、聞き耳を立てる訳では無いけれども、私は、もうですね、皆さんが、御理解ば、頂くとをですね、人の悪口かなんかで、聞き耳を立てるときのようなきもちで、御理解を頂いたら、素晴らしかろと私は(笑い)思う。もう、打ち合わせずこうやってそば行って聞いちゃる、その方が。その、ところどころで、ここの、椛目の信者さんの名前が出てくる。椛目の金光様の名前が出てくる。ほんだから余計、その、まあ、ところが、その方達もやっぱり、こちら、吉井行きのバスに乗られておる。前後に乗っておる。ですから、後ろ、前に乗っておる。まあ、それこそもう、乗り手が少なかったそうですからもう、二人でもう、その方のことをもう、それが、ほんなこつじゃろかということを、悪口を言われる。「ね」。思いのお詫びをさせて頂きながら、けども、それもやっぱり、一つの好奇心も手伝ってから、聞いてしまって、ここで、椛目で、あの、降りようと思って、立ち上がったら、前の二人が、びっくりして、あらー、あの人は椛目で降りござる。自分たちの言うたこつが、ばれどんせじゃろかと思いなはったごたるふうで、私は、もう、降りてくるのに、気の毒かぐらいだった、ち言うてこの、言われるくらいにその、悪口を言われたそうです。しかも、その、悪口の言われ方がです。根性が悪いとか、「ね」。意地が悪いとかと言ったような事ではなくてです。それこそ、今日、私が、申しますようにです。金光様のご信心を頂きよって、ああ、もう、椛目、椛目ち言うて、参りよるばってん、「ね」。椛目の金光様はどげなこつ教えござるだろうかと言うことにまで、なりかねないのですよ。ほんとに、その人だけのことじゃなかろう。お互いが、ここんところは、本当に、「ね」。私は、もう、本当に、ごまかすと言うことを、もう、いけないことだと思うですね。人の目をかすめるとか。ごまかすとか。もう、これがあってです。これがあって、どんなに、力を受けようとしてもです。本当の、それは、力を受けたかのようにあっても、それは、基礎が緩んだ上に、家を建てるようなもんだと私は思うです。「ね」。ある子供、これは、ある息子さんがですたい、親にそういう癖があった。そのために、その子供が難儀をした。そのためにですね、もう、それこそもう、大変な、そのあたりの修行をしたと私は聞いたことが在ります。おやが、そういうですねえ、そういうことをしておる。間違ったことをしておる。ごまかされる、絶対ごまかされる。さあ、その子供が、それこそ、とたんの苦しみに追い込まれた。けれども、その息子が、いわば、出来が良くて、信心が手厚かったから、「ね」。その、親のための、親父のために、自分の一生を掛けて、お詫びしぬいた。これが、あとまで残るようなことがあっちゃならんと思ったから。「ね」。そして、その、親を地獄から救い上げたという話があります。もちろん、そのことによって、その人は徳を受けた。「ね」。だあれん、知らん。だあれん、分からん。ほんとに信心はです、なんと言うても、すぐいということが、力を受ける、おかげを受ける、徳を受ける、素の、力素の、自分では、ごまかせたように思うとってもです。いわゆる、たとえば、こりゃ、そんな、(たびとかにすんとか?)と言ったようなこっじゃなくてもです、自分の日常生活の中に、「ね」。当たり前、もう、本当にそれを、ごまかし続けても当たり前のごつ思うてから、それを、平気でやってのける。自分は、ごまかし、そんなやってするのだけども、それを、触れた、ほんなら、第三者は、もう、あの人は、あれがいっちょ無かと、良かばってん、ち言うような事になってしもうて、その、信用はもうがた落ち。別に、そるきんち言うて、兎に角、わあわあ言うことでもなくもです。その、目をかすめるとか、ごまかすというのがいけんのです。ところが、私が言うたようにその、生活の中に、それがあるて。厳密に言うとあるて。そこで、私は、詫びなければいけない。詫びれば許してやるというのが、親心と仰る。「ね」。
もう、15年も前の話ですけれど、丁度、梅が、あー、いっぱいなる時期だった。何かお供えしたい、お供えしたいと思うてから、思いよるところが、その、軒のところから、こう、梅が、こう、瓦にこう外のほうに出て来とった。それを、ある人が、それを一枝押し折ってきてから、天地の親神様は大物じゃきん、良かろち言うちから、押し折って持ってきた。ある方が、ここへお参りしてくる道々、こげん、一人だけ、筍のお供え持ってきた。神様は、それをお受けにならなかった。あとで、懺悔されるのに、来る道々、あんまり、竹の塀がですたいねえ、生えとるもんじゃから、はあ、お供えしようと思うちから、他所の、藪の中に入ってから、こう、一枝切って来た。そしてそればその、それが、例え親先生が好きな筍であっても、「ね」。親が喜ぼう、先生が喜びなさろうと思って持ってきてくれてもです。それでは、親孝行には、ならんですねえ。
ある、うー、お城での出来事、小姓達が集まって、なにか、まあ、子供上がりの方たちばっかりですから、まあ、とごえよったつでしょう、冗談のごつして、ところが、どうした弾みかその、殿様が大事にしておられる衝立を破った。さあ、もう、おねって驚いた、皆が。そして、それを黙って、ま、ごまかそうとした訳なんです。それを殿様が気付かれてからです。誰が破ったかということになったんです。「ね」。だあれも、その、私が破ったとは言わん。中に一人、その、殿様の前に出てからです。私が粗相を致しまして破きましたと言うてからその、お詫びをしたんです。殿様は、大変お喜びになった。「ね」。そして、その、ご褒美に、脇差を下さったという話があります。「ね」。ほんなごと、その、詫びれば許してやりたいのが親心なんです。私共の上にです、様々なその、只今その、厳密に申しますとです、「ね」。別に悪いこと、それが、別に、罪になるという事ではなくてもです。神様の目はごまかされないと言ったような事を、ごまかしておるようなことはなかろうか、それが、信心のおかげを頂いて行くための、力を受けて行くための、いわば、力素である。元になるのである。ここんところが、すぐ、おかげを頂いていこうと、「ね」。正しくなろう、正直にやらせて頂かなければです。折角、頂いたその、おかげが、おかげにならない。それこそ、御徳を頂いた方たちといったようなものは、むしろ、その、そういうことよりもです、その、人が見らない、知らないところを、大事に、大事にされた人たちが、みんな御徳を受けておられます。「ね」。ですから、私共の、過去一切の模様をじっと振り返ってみると、あれも、お粗末であったろう、これも、ご無礼であったろうと、これも、間違うておりましたという事をです。素直に、私は、詫びて、許されて、それで、そこから、新しい信心が打ち立てられて行くという、おかげにならなければなりません。私が言うことは、何時も、もう、おかげということもですけれども、「ね」。人間は、力を受けなければ、徳を受けなければ、人間の真実の幸せは無いとこういう。このことばから。だから、そのことを如何に覚えた所で、その、基礎であるところの、物が、間違っておる、狂うておったんではです。「ね」。その、それからの信心が、いわば、水泡に帰すということが無いに致しましても、惜しいことだと。いわゆる、玉に傷なのである。「ね」。私、昔、大きな水晶の玉、その当時、まあ、一円なら、一円としての値打ちがある時分です。その、水晶の玉が、一万円、これがする。その中に、糸くずほどの傷がある。ために、これはもう、百円がたも無いという話を聞いたことがある。これが、もし、なかの糸屑のほどの傷が無かったらですね」。一万円かたの値打ちがあるというものがです。なかに、ほんの、糸屑ほどの傷があるために、いわば、百円がたの値打ちしかなかとこういう。いわゆる、玉に傷である。椛目の信心が、金光様のご信心が有り難いと言うてもです、「ね」。私共の、心の中にそういう傷が一つあると、金光様のその、玉のような値打ちまでが、全値打ちを傷つけるのであり、「ね」。本当の力素と、力の素にならん結果にまで、なってくるのでございますから、「ね」。私が、皆様に、正直になれ、正直になれというと、ほんなら、皆さんが悪い事ばっかりしておるように、も、誤解なさらんように。私が申しますのは、どこまでも神様が、ご覧になってからのそれなんです。「ね」。ですから、厳密に、致しておりますとです。「ね」。これも、実意をかいでおることだ、これも、ごまかしている事だといったような事がございます。私共が、実際、私自身がです。お商売をさせていただいて、酒屋でございましたから、「ね」。昔は必ず、和水というのを致しました。酒一升に、一合なら一合の水を入れるわけです。「ね」。それが、(  ?  )十一円のもんは、十銭ようけ儲かる。それをもう、当たり前の事のようにしてやってきた。もう、商売人な、いや、酒屋は、これをやりきらなければ、もう、一人前の酒屋じゃなかごと、言うて来ておる。今になって、そのことが、もう、本当に、悔やまれて、悔やまれてなりません。「ね」。本当に、人が、十銭儲かるものは、八銭にしとけとさえ、教祖は、仰るのだから。人が、十銭儲かるときは、十二戦儲かろうと思うもんだから、そんな事せんならんのです。それが、私共の上に、どういうほんなら、難儀なことになってきたか分かりません。まあ、おかげでの修行できたわけでございますけれども、「ね」。そういう意味合いにおいてならです。お互い、私はそれがあるのではなかろうかと、こう思うのです。どうぞおかげ頂かれますように。